【コーヒーコラム】コーヒー1杯600円は高いのか?「値段」と「価値」がすれ違う場所で

これは単なるコーヒー1杯の値段の話ではない──
「価値とは何か」「体験とは何か」「お金とは何か」という、現代人が毎日無意識に突きつけられている哲学的な問いでもある。
その一杯に、いくら払っているのか?
「え、コーヒー1杯600円? 高っ!」
そう言われた瞬間、言葉が出なかった。
その相手は、かつて同じ職場で働いていた仲の良い同僚だった。
悪気がないのはもちろんわかっていた。むしろ、無邪気な関心からの一言だった。
でも、開業してまだ間もない頃の自分には、うまく返す言葉が見つからなかった。
たしかにその通りだ。600円は高い。コンビニの100円コーヒーも、最近は本当においしい。
そう思ったら、自分の価格設定が急に根拠のないものに感じられて、心のどこかがぐらついた。
それでも、なぜかその日、自分で淹れたコーヒーを飲みながら、ふと考えた。
「私は、この1杯に“何”を込めていたんだろう?」
値段と価値がすれ違う場所で
600円という価格。
それだけを切り取れば、たしかに高い。
でも私がイベントで提供しているのは、コーヒーという飲み物“だけ”ではない。
- 焙煎された豆に込めた、生産者とつながる小さな物語
- 子どもと一緒に来た親が、3分だけホッとできる場所
- その場でしか出会えない、一期一会のバリスタとの会話
- 忙しい日常のすき間に差し込む、“非日常”という光
それらすべてをひとまとめにして、私は「1杯600円」という“かたち”にしている。
つまりこの問いは、「その一杯が高いか安いか」ではなく、「その一瞬に、何を感じられたか」という感性の話なのだ。
“安さ”がすべてを壊す瞬間
もし“安さ”だけを追い求めると、世界からは静かに豊かさが消えていく。
コーヒーも、アートも、文章も──本来「意味」で味わうべきものが、「コスパ」で裁かれるようになる。
- 「感動できる映画」より「短くてバズる動画」
- 「考えさせられる本」より「3分で要約されたAI記事」
- 「誰かと対話する時間」より「効率のいい自己啓発」
“意味があるか”より、“損しないか”。
この感性が社会の標準になるとき、私たちはいつのまにか、「生きるコスパ」を測り始める。
それって、本当に豊かだろうか?
600円のコーヒーを「安い」と思える感性を
今なら、あのときの自分に言ってやれるかもしれない。
「600円が高いかどうかは、値段じゃなくて、その時間が自分にとってどれだけ意味のあるものだったかで決まるんだよ」って。
あの一言をくれた元同僚には、むしろ感謝している。
あれがなければ、自分の中の“価値観の揺らぎ”に気づけなかったかもしれないから。
そして今、この問いをあなたに渡したい。
コーヒーに、空間に、人との時間に──
あなたは「何」のためにお金を払っている?
それを自分に問いかけられる感性こそが、
ほんとうに価値のあるものを選び取る目になるのかもしれない。